Substackもnoteも読者との距離の取り方が大事
先週、ちょっと悔しい発見をしました。
自分のnote190本の数字を、全部並べてデータ分析したんです。編集者として人の原稿は34年見てきたのに、自分の記事を数字で見たのは、これが初めてでした。遅すぎますよね(笑)
結果は、けっこうこたえました。
時間をかけて仕上げた記事ほど、読まれていなかったんです。
しっかり書いた記事ほど、スキがつかなかった
「スキ率」がいちばん低かったのは、こういう記事でした。
ノウハウをきれいに整理した連載
手順をまとめた解説もの
検索からいちばん読まれたノウハウ解説
最後のやつなんて、ビューは190本で1位。なのにスキ率は最下位だったんです。たくさんの人に開かれても、誰の心も動かしていなかった。数字で見ると、けっこうしんどい事実でした。
反対に、スキ率が高かったのはこういう記事。
売上を追いかけて、雑誌の部数を落とした失敗談
書けない日の試行錯誤を、そのまま見せたエッセイ
自己紹介
整えた「先生っぽい記事」より、格好悪いところを見せた「同じ目線の記事」のほうが、ずっと読まれていました。
その差は、うまさじゃなくて距離だった
ここで気づいたことがあります。
読まれるかどうかを決めていたのは、文章の上手さじゃなく、読者との距離でした。
書き出しの1行目で比べると、はっきりします。どちらも僕の実際の記事の冒頭です。
◆Before(先生っぽい声)
「文章を書く時、慣れてないと『何を』『どのように』書くかに着目しがち」
◆After(同じ目線の声)
「調子に乗ってた過去の恥ずかしい話」
前者は、教壇の上から正しいことを言うような書き方。後者は、隣の席からぽつりと聞こえてくる、同じ目線のような書き方。読者が思わず返事をしたくなるのは、いつも後者のほうなんですよね。
正しいことを言われると、人は納得します。でも、納得と、心が動くことは別のできごと。うなずいたのに、スキは押さない。あの反応の正体が、この距離感でした。
AIが整った文章をいくらでも書ける時代。「正しくて、うまい」だけの文章は、これからどんどん価値が下がっていく。かわりに残るのは、あなたがどの目線から書いているか、という距離感なんだと思う。
では、どうすればいいのか
距離を縮める、といっても大げさな話じゃありません。明日から実践できることを3つだけ書きます。
①いちばん恥ずかしい失敗を、1本書く
あなたが隠したい失敗ほど、同じ場所でつまずいている誰かの心に響きます。うまく書かなくていい。格好つけないことのほうが、ずっと効果的です。
②書き出しの1行目を、独り言に変える
「〜について書きます」をやめて、「また今日も書けなかった」に差し替えるだけ。目線を一段下げて、読者と同じ目線に、そろえる感覚です。
③ノウハウ記事には、つまずいた場面を一つ入れる
正しい手順に、体温を宿す作業です。同じ情報でも、書いた人の顔が見えたとき、読者は続きを読みたくなる。
最高傑作が、プロフィールでした
正直に言うと、僕の190本でスキ率1位は、自己紹介でした。34年書く仕事をしてきて、最高傑作がプロフィール。さすがに笑いました。
でも、腑に落ちてもいるんです。あれがいちばん、格好つけずに書いた記事だったから。
一人メディアで最後に選ばれるのは、うまい人じゃない。近い人。
あなたのSubstackの1行目は、いま「先生の声」と「隣の席の声」、どっちで書かれていますか。
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ぜひ、Substack一緒に頑張っていきましょう。
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この文章は、「うまく書くこと」より「どこから語るか」が読者との関係を決める、という重要な感覚を捉えています。
ただし、その発見をすぐに「近い文章ほど価値がある」という法則にすると、別のものが見えなくなります。少し距離を置いて照らしてみます。
見落としているかもしれない3つの前提
1.「スキ率=心が動いた度合い」という前提
スキは、心の動きの一形式にすぎません。
深く考え込んだ記事、反論したくなった記事、保存して後で読み返した記事、誰にも知られず人生の判断を変えた記事には、スキが押されないこともあります。
むしろ重い文章ほど、即座のリアクションをためらわせる場合もある。
* スキは「共感」の指標なのか
* 「好感」の指標なのか
* 読後に押しやすかったという「操作性」の指標なのか
* 書き手への親しみを示す指標なのか
「反応されなかった」と「作用しなかった」は、同じでしょうか。
2.「読者との距離は、文章だけで決まる」という前提
スキ率には、題材、タイトル、流入経路、読者層、投稿時刻、フォロワーとの関係、検索から来た人の割合なども関わります。
ビュー数1位の記事は、普段その人を読まない人にまで広く届いたからこそ、スキ率が低くなった可能性もあります。
それは「誰の心も動かさなかった」のではなく、いつもの共同体の外まで届いた代償かもしれません。
距離が遠かったのは文体でしょうか。それとも、初対面の読者が多かったのでしょうか。
3.「弱さを見せれば近くなる」という前提
失敗や恥を語ることは、確かに人を近づけます。
しかし、弱さは公開できる人だけの資源にもなり得ます。語っても生活や信用を失わない人と、失敗を語れば仕事、家族、安全を脅かされる人では、条件が違います。
さらに「いちばん恥ずかしい失敗を書こう」が定石になれば、弱さそのものがコンテンツ化されます。
告白は、本当に解放でしょうか。
それとも、新しい自己ブランディングでしょうか。
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4つの立場から問い直す
当事者――書き手の視点
34年間培った技術が、数字によって否定されたように感じたのではないでしょうか。
しかし、数字が否定したのは文章力でしょうか。それとも、そのプラットフォームにおける反応のされ方でしょうか。
書き手は、読者に近づきたいのか。
それとも、近い人だと思われたいのか。
この二つは、どこで分かれるのでしょう。
反対者――正確さや専門性を守る人の視点
医療、法律、政治、災害、歴史の文章まで「隣の席の声」が望ましいのでしょうか。
ときには、親しさよりも正確さ、感情よりも根拠、共感よりも責任が必要です。
「先生の声」が問題なのではなく、先生が読者を見下していることが問題なのではないか。
専門家が自信なさげに語ることで、かえって弱い人が不利益を受ける場面はないでしょうか。
未来世代――AIとともに書く人の視点
未来の読者は、整った文章だけでなく、「計算された不完全さ」もAIが生成できる世界に生きます。
AIは、「また今日も書けなかった」という独り言も、失敗談も、体温のあるエピソードも量産できるでしょう。
そのとき価値を持つのは、文体上の近さでしょうか。
実際に生きた経験でしょうか。
発言に責任を負う身体でしょうか。
それとも、長い時間をかけて築かれた信頼でしょうか。
最も弱い立場の人――語れない人の視点
失敗を公開できない人、文章がうまくない人、個人的な物語を持ち出したくない人は、「選ばれない書き手」になるのでしょうか。
また、読者との距離を縮める技術は、孤独な人や不安な人を商品へ誘導する手法にもなり得ます。
「近い人」という感覚が、販売や課金に利用されるとき、どこからが関係で、どこからが操作でしょうか。
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この考えが心地よすぎるとしたら、どこに盲点があるか
最大の盲点は、「先生から隣人へ」という反転そのものが、新しい成功法則になっていることです。
「正しいことを言うな。失敗を語れ。独り言から始めろ。顔を見せろ」
これもまた、教壇の上から語られるノウハウになり得ます。
さらに、記事の最後にはメルマガへの導線があります。それ自体は悪くありません。ただ、「近さ」が信頼を生み、その信頼が商品や登録へ流れていく構造は、丁寧に見ておく必要があります。
親密さは、人間関係でしょうか。
ブランド資産でしょうか。
両方だとすれば、その境界を誰が管理するのでしょう。
もう一つの盲点は、長く残る文章と、すぐ反応される文章を同じ尺度で測っていることです。
その場ではスキされなくても、五年後に思い出される文章がある。
その場では絶賛されても、一週間後には忘れられる文章もある。
即時反応に強い文章と、時間に耐える文章は、同じ競技でしょうか。
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5つの層に分けた問い
社会問題
プラットフォームが可視化する数字は、書き手の表現をどのように変えているか。
人は本当に心が動いた文章を書くようになるのか。それとも、心が動いたように見える反応を獲得する文章へ最適化されていくのか。
共感されやすい個人的物語ばかりが評価される社会では、構造的で複雑な問題は語りにくくならないでしょうか。
身体感覚
スキ率が低いと知った瞬間、身体のどこが縮んだのでしょう。
胸でしょうか、腹でしょうか、喉でしょうか。
その痛みは、「読者に届かなかった悲しみ」なのか、「自分の技術が認められなかった痛み」なのか。
数字を見る前、自分の文章を読んだ身体は、本当は何を知っていたのでしょう。
歴史
説教、書簡、日記、随筆、新聞、ブログ、SNSへと、書き手と読者の距離はどう変化してきたのでしょう。
古い手紙や日記が現代人を動かすのは、読者を意識していなかったからでしょうか。
近代以降、「私を語ること」は自由になったのか。それとも、市場に提供する新しい労働になったのでしょうか。
宗教
告白とは、他者に好かれるために行うものなのでしょうか。
キリスト教的な告解、仏教的な懺悔、法華経における方便は、弱さを魅力へ変換する技術とは異なります。
弱さを見せることによって「私」を強くするのか。
弱さを通して「私」への執着を少し手放すのか。
その二つは、文章のどこに現れるでしょう。
芸術
芸術は、いつも観客に近くなければならないのでしょうか。
意味の分からなさ、沈黙、冷たさ、形式の厳しさ、拒絶するような距離が、人の深部を動かすこともあります。
親しみやすさは美の一つですが、美の全体ではありません。
読者が返事をしたくなる文章と、返事すらできず立ち尽くす文章では、どちらが「心を動かした」と言えるのでしょう。
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5つの根本的な問い
1.これは本当に問題の中心か
問題は「書き手と読者の距離」でしょうか。
それとも、異なる目的を持つ文章を、同じスキ率で順位づけしていることでしょうか。
2.誰の声がここで消えているか
弱さを公開できない人。
先生のように語ることで責任を果たしている人。
静かに読んで、反応を残さない人。
文章を何年も心に持ち続ける人。
彼らの存在は、数字に表れているでしょうか。
3.私は何を前提としてしまっているか
読者は近い人を選ぶ。
スキは共感を示す。
自己開示は誠実である。
数字は文章の真価を映す。
これらは普遍的な真理でしょうか。それとも、今のプラットフォームにおける一時的な傾向でしょうか。
4.便利さの代わりに、何を失っているか
数字は、190本を一瞬で比較できます。
しかしその便利さによって、一つ一つの記事が持つ異なる目的、読者、時間軸、沈黙の反応を失っていないでしょうか。
測れるものだけを見ることで、測れない作用を切り捨てていないでしょうか。
5.この状況に慈悲を入れると、何が変わるか
スキ率が低かった過去の自分を、「教壇から語った失敗者」と裁く必要はなくなります。
そのときの自分も、誰かに役立とうとして、正確に伝えようとしていた。その努力にも理由があったはずです。
読者にも、スキを押さなかった理由がある。
書き手にも、近づけなかった事情がある。
先生の声にも、隣人の声にも、それぞれ必要とされた縁がある。
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空の視点から照見する
「先生」と「隣人」は、固定された実体ではありません。
ある読者にとっての先生が、別の読者にとっては隣人になる。
昨日は失敗を語る人だった者が、今日は誰かを導く人になる。
文章の価値も、文章の内部だけに存在するものではありません。
書き手の状態、読者の人生、読む時期、届いた経路、社会の空気。その無数の縁によって、そのつど生まれます。
ゆえに、
スキ率が低い文章という固定したものはない。
ある条件のもとで、スキが押されにくかった文章があるだけです。
同じように、「近い文章」という実体もありません。
近さは、書き手が作るものではなく、書き手と読者のあいだに生じる出来事です。
先生の声を捨てて、隣の席の声を演じる必要もないのかもしれません。
ただ、書く瞬間に問う。
私はこの人を説得しようとしているのか。
評価されようとしているのか。
売ろうとしているのか。
それとも、同じ不確かな場所に座ろうとしているのか。
そして、さらに静かに問う。
誰が書き、誰が読み、誰の心が動いたと言っているのだろう。
そこまで見つめたとき、スキの多い文章と少ない文章は、勝者と敗者ではなくなります。
それぞれ異なる縁を生きた、一つの文章として立ち現れてくるのではないでしょうか。
しばじゅんさん、おはようございます☀
だからこそ、先ずはその「一番恥ずかしい失敗」について思い返し、その時のことや自分の精神状態などについても事細かにメモ用紙にでも書き出していくことが重要ですね📋️